昔、私の場合は特に30代の頃
「がんばって」というひと言が嫌いだった。
「とりあえず無難な言葉をかけてみました」的な匂いがして
無責任さを漂わせながらも善人ぶってる感じがして
「がんばってね」と言われるたびに
胸の奥がチクッと痛んだ。
(いや、もうこれ以上がんばれないから…)
笑顔で頷きながらも静かに心の中では反論してた。
こんなに使いやすい言葉ってないのに
この便利な一言に傷つくひともいるんだということを知った。
自分が言われて心地良い響きがしない言葉だけに
心から応援したくて、声をかけたい時にも
まず気持ちで一拍拍子をとってから
言葉に出すようにと注意するようになった。
「がんばって」ではなく
「がんばろうね、私もがんばるから」
「お互いにがんばろうね」
そのひとを突き放さないような言葉を添えてのアレンジ。
あれから年月が経ち
いまは「がんばってね」という響きのなかに
温かさを見つけられるようになった。
心から「ありがとう」と素直に受け取れるようになった。
がむしゃらに走っていて
いっぱいいっぱいなときは
この言葉の持つ「あたたかみ」はわからない。
ギリギリのところでやっているから
素直に受け取れるだけの余裕がない。
むしろ「励まし」が「攻撃」にさえ聞えてしまうことも。
何かイライラすることがあると
ひとは都合よく「相手のせい」ばかりにしたがるけれど
そのほとんどは
反応する[自分の気持ちの狭さ]にあったりする。
もちろん投げかける方にまったく問題がないとは言えない。
けれど、何よりも気をつけなければならないのは
そのことに過剰に反応してしまう自分の状態
それを見落さないようにしたい。
「がんばって」と言われて
あなたはいまどんなふうに感じるでしょうか。
「がんばって」というひと言が嫌いだった。
「とりあえず無難な言葉をかけてみました」的な匂いがして
無責任さを漂わせながらも善人ぶってる感じがして
「がんばってね」と言われるたびに
胸の奥がチクッと痛んだ。
(いや、もうこれ以上がんばれないから…)
笑顔で頷きながらも静かに心の中では反論してた。
こんなに使いやすい言葉ってないのに
この便利な一言に傷つくひともいるんだということを知った。
自分が言われて心地良い響きがしない言葉だけに
心から応援したくて、声をかけたい時にも
まず気持ちで一拍拍子をとってから
言葉に出すようにと注意するようになった。
「がんばって」ではなく
「がんばろうね、私もがんばるから」
「お互いにがんばろうね」
そのひとを突き放さないような言葉を添えてのアレンジ。
あれから年月が経ち
いまは「がんばってね」という響きのなかに
温かさを見つけられるようになった。
心から「ありがとう」と素直に受け取れるようになった。
がむしゃらに走っていて
いっぱいいっぱいなときは
この言葉の持つ「あたたかみ」はわからない。
ギリギリのところでやっているから
素直に受け取れるだけの余裕がない。
むしろ「励まし」が「攻撃」にさえ聞えてしまうことも。
何かイライラすることがあると
ひとは都合よく「相手のせい」ばかりにしたがるけれど
そのほとんどは
反応する[自分の気持ちの狭さ]にあったりする。
もちろん投げかける方にまったく問題がないとは言えない。
けれど、何よりも気をつけなければならないのは
そのことに過剰に反応してしまう自分の状態
それを見落さないようにしたい。
「がんばって」と言われて
あなたはいまどんなふうに感じるでしょうか。
癌で闘病中のかた。 助かる見込みはありません。
薬も効きにくくなり、毎日がしんどい思いで過ごしていらっしゃる。
看護婦さんは、励ましのつもりで「頑張ってくださいね」と声をかけられた。
でも、その方は、「こんなに苦しいのに、今まで精一杯頑張ってきたのに、これ以上、どう頑張ればいいの」と、泣きだされた。
言葉は、難しいですね。
考えすぎると、何も話せなくなってしまいます。
私たちは、話す側も、受け取る側も、時ににがい思いをしながら、色々と学んでいくのでしょう。
Chieさんの発せられるメッセージは、いつも「気づき」をもたらしてくれます。
ありがとうございます。